第二章
僕は、昨夜の疲れもあってぐっすりと眠りこけていました。眠っている時、僕は夢を見ていました。その夢は昨日僕が怒りを覚えた群集に向かって、今度は、反対に僕が彼らを罵倒している、そんな夢でした。すると突然夢の中でドアをノックする音が聞こえ、それに続いて聞き覚えのある声が聞こえてきました。
「おぉい、小太郎起きているか?」そんなトーレンみたいな声が聞こえます。このあまりに甲高い声に僕は「うるさい」と大声を上げ、ベッドから跳ね起きました。そしてやっと僕は今いる状況に気付きました。夢の中で聞こえた音はトーレンが僕の家のドアをノックする音です。そしてその声の主は玄関の前で大きな声でもう一度叫びました。
「おおい、小太郎起きているか?」
「今用意するから、もう少し待ってくれよ、トーレン。」
僕はその大きな声に半分いらいらしながら、ベッドを降りました。そして僕は目をこすりながら、身支度をし、玄関に向かいます。その大きな玄関を開けると、目の前に笑顔のトーレンが立っていました。僕は彼に、「いま何時?」と訊きました。
「うぅん、ちょっと待って、時計を見るから。」彼は自分のポケットから銀色の大きな懐中時計を出し、それを少し高く持ち上げながら僕に見せました。
「今、十二時かぁ。え、たしか、約束の時間は十時だったよね。」
そういうと、彼は少し笑いながら、「お前の住所を隣近所に尋ねるのに、一時間。お前を玄関の外から起こすのに一時間。合計二時間、余計なことに時間がかかった、ただ、それだけの話さ。その結果として、僕らは司教様の知り合いから大目玉を食らうことになるだろうけどね。さあ、そんなことよりもっと身だしなみをキチンとしてこい。そんな格好じゃあ、とてもじゃないがお目通りは叶わんぞ。さあさあ、早く用意をすませてこい。」
彼は僕の背中を家の中に向かってぐいぐい押し込みながら、そう告げました。僕はまだ半分眠ったままの頭を無理やり動かしながら、家の奥にさっさと入っていきました。「今日は、どの服にしようかな?」と、僕はクローゼットの洋服を何着か手に取ります。その洋服も結構でかいのです。僕の体は前に言ったようにすごく大きいのです。だから洋服も全部特注品、洋服代も馬鹿にはなりません。そんなことをあれこれ考えながら、「今日は特別な日だし」と思い、できるだけ立派な服を着ようとクローゼットの奥の隅のほうにあった服を取り出しました。その服はだいぶ着ていなかったようでちょっとほこりが付いていました。大きな襟に、立派なボタン、それは中世の公爵が社交界に着ていく服にそっくりでした。その服を窓辺に持って行き、少しバサ、バサッとして僕はそれに身を包みます。そしてお次は洗面所に行き、歯磨き(実は牙磨き)と身だしなみです。その歯磨き用のブラシも人から見たら大きいでしょう。そのブラシの毛はヤシの実のモシャモシャしたところをたくさん使って、作られています。このブラシは僕の歯を磨くより、奈良の大仏のお清めに使われたほうがよいでしょうね。事実、僕の石より硬い歯を磨いていると、これはすぐにボロボロになってしまいます。大体一週間ぐらいでなります。そのせいか、何のせいかは知りませんが、これを売ってくれるお店の人は僕を上客だと言い、うれしがってくれます。反対に僕のお財布の中身はブラシと同じように一週間ぐらいで中身が消え去ってしまいますがね。
「さて、そんなことより早く支度をすませなくちゃ。」僕は、身だしなみをさっさとすませ、トーレンの元に向かいました。実際さっさとは言っても僕ら竜族はイタリア人並みに時間に無頓着なのです。そんな当たり前のことでも僕はだいぶ時間がかかったなあと、思っていました。さすがに人を待たせるときにはいくら僕でも気をつかうのです。しかし彼は怒るわけでもなく、暇そうな風でもなく、ただ玄関の前に突っ立って、僕の家の前を通る人をその鋭い目で観察していました。僕はその光景に少し違和感を覚え、彼の背中越しに問いかけました。
「トーレン、何をしているの?」
「何、あぁ、これかぁ。これは、…俺の癖なんだよ。一応俺は警護員だからね。こうやっていつも辺りを警戒しているのさ。これが俗に言う職業病ってやつさ。」
僕はその行動に思わず吹きだしてしまいました。なぜでしょうか? 彼の行動が一般的じゃないせいかしら? そんなことを思いながらも、現実に、僕は笑っています。そして彼は、というと、僕の行動を見て、「ふん」とひとつ大きな鼻息をしました。これは彼が見慣れた光景に飽き飽きしたときにする合図です。これも彼の癖です。彼は、その後にもう一度、大きなため息をつきました。彼は、僕に呆れたのでしょうか? けれど彼はそんな細かいことに気を遣おうともせず、普段どおりの様子にすぐ戻りました。その後しばらく彼はその観察を続けます。目は獲物を狙う狼のように鋭く、息は空を舞う鷹のごとく静寂です。五分ぐらい、そんな風に僕が彼を観察したころでしょうか。急に彼は大きな銀色の懐中時計を取り出します。目をこすりながら、顔を時計の針にくっつくぐらいに近づけています。そしてはっと、何かを思い出したように突然振り向き、僕に向かって、
「お前、支度にどれだけ時間をかけているんだ。もう、十二時四十分だぞ。さあさあ、その重い尻を動かせ。とっとと行くぞ。どうした、どうした、早く行かんとそのケツを蹴っ飛ばすぞ。さあ、さあ、歩け、歩け。走れ、走れ。」
その言葉は妙に現実的でした。それは夢の世界で聞こえたノックの音と同じ音でした。そんなぼぉっとしているスローリィドラゴン(The slowly dragon)にとうとう蹴りが入りました。その鈍い痛みが脳髄に響き渡ると共に僕は「ギャッと」と悲鳴を上げました。
「お前が鈍いからいけないんだぞ。俺は、一度言ったことをやり遂げる人間だからな。そら、そら、まだ動かないんなら、もう一度蹴りを入れるぞ。」
「これはさすがに痛い。」口には出さずともそう思った僕は、振り返って後ろのお尻をまじまじと見ました。なんと、まあ、ちょっと赤くなっているじゃないですか。そしてもう一度視線をトーレンの方に向けなおし、僕は彼を恨めしそうな顔で睨みつけます。それに呼応するように彼はもっと鋭い目つきで僕を睨み返しました。この彼の目といったら、おお、怖い、鬼みたいです。こんなやり取りをしょっちゅうしてたら、僕は自律神経失調症になってしまいますよ。そしたら僕はどうなるの? 精神科に入院だあ。こんな強迫観念が渦巻く中で僕は自分に、「この原因を作ったのは僕自身だし。それに、ここで一歩引いた方が大人だぞ」と言い聞かせ、何とかそのやり取りに終止符を打ちました。
こんなくだらないお遊びも終わり、やっとのことで僕たちはその司教様の知り合いの人の家に向かって、歩を進め始めました。その間も始終、彼は鋭い目つきであたりを警戒し、隣の僕から見て、「この眼で見られている人は怖いだろうなあ」とつくづく思いました。かくいう僕も道をのんびり歩くのはあまり好きではありません。僕は普通のことが嫌いなストレンジドラゴン(The strange dragon) ですから、大抵こういう時は何か空想をしながら歩くのです。こんなことをしていると色々良い考えも浮かびますが、反対に困ったことも起きます。まあ、少しここで実体験をお話しましょう。僕がそんなことに夢中になって歩いていると、時々電柱に頭をぶつけます。もちろん、電柱の高いところに頭をぶつけます。それがけっこう痛いものなんですよ。しかもこれは電柱にただぶつかるより痛いのです。そういう時もやっぱり僕の空想癖は役立って、「何でこれはすごく痛いのか?」という疑問をちゃんと解決できましたよ。それをここで説明しますとね、人というのは(僕は竜ですが)、ちゃんと意識が目の前の物に集中されていると、それに呼応するかのように筋肉がこわばりその衝撃を防御しようとするのです。反対に無意識の場合はそれがなくて、もろに衝撃が体に伝わります。これは要するに人とは意識的に何かをする時には筋肉がこわばり、反対に無意識の時にはそれが緊張しない、ということになります。ふむ、ふむ、今考えてもこれはなかなかの学説だと思いますよ。それにある有名な学者が僕のとは少し違いますが、こういうことを言っていましたよ。
「武道家などに見られる、長年の修練によって得られた動物的反射行動、これは常に無意識下の元に行われるものである。たとえそれが練習し始めた時には意識的だったとしても、その最終的な形は無意識下における反射的行動でなければならない。なぜなら意識的な行動とは咄嗟の反応を鈍くし、何事をするにしても流れる動作というものができなくなってしまうからである。それとは反対に無意識下の行動は流れる動作を約束し、その動作の機敏さは反射の訓練如何によるだけである。よって流れる動作を行なう者は、そのときに何一つ感情的諸事、考えごとをしてはいけない。これがその動作中に頭に入り込むと、それは緩慢な動きとなって表面にでてくる。そのことからスポーツで言う精神面の強化とは自分が行なっている動作に集中することであるといえる。だが正確に言ってその集中するとは感情行動の一部分なのである。しかしそれは精神をその事象一極に注ぐことに本質を置くため、それは自己のうちに感情を許容することになる。そのためこれは感情行為のもっとも有意義な使い方のひとつであるといえる。一極に集中する、これは怒りや悲しみ、不安などにも見られるものである。しかしその場合の一極とは、それが何かしらの対象に向けられたものであり、決してそれには集中という言葉は用いられない。なぜならそれは周りの環境に振り回されていることを表すからである。したがってこの場合の感情とは周りの環境に注意が散乱しており、非常に錯綜している状態を指す。いくら環境に集中しようともそれが時間と空間を伴っている限り、それは動き続ける。よって怒りなど、動き続けるものに振り回される感情のことを集中するとは言わない。自己の内の自信とその自分の生み出す動作に集中する限り、これは本当の集中となる」と、まあこんな長ったらしい文章で説明がしてありました。これを僕は一応覚えましたよ。それを全て理解しているかは別として。
さあそんなかんやで空想をめぐらしていると、突然僕のお尻に鈍い衝撃が走りました。僕は反射的に「やったのはトーレンだな」と思いました。僕は痛い、痛い、とお尻をさすりながら、何んとか立ち上がってあたりを見渡しました。そしたら目の前にやっぱりトーレンが立っていました。思ったとおりその犯人は彼でした。そんな痛々しい僕を尻目に彼は僕に向かって、「おい、もう相手の家に着いたぞ。さっさと、その襟を直せ。そんな格好じゃ相手に悪いぞ」と、注意してきました。彼のぶっきら棒なお知らせで僕はやっと司教様の知り合いの方の家の前に立っていることに気づきました。その家は豪華、じゃなくて普通の家のような感じでした。玄関には古びた郵便ポストが置いてあり、その脇には枯れたダーリヤの入った植木鉢が転がっていました。その植木鉢が面白いことに風が吹くと、操り人形みたいになっていろんな場所に転がっていくのです。それは風の糸が植木鉢の上にくっついて、ダンスをさせているようでした。そんな面白い光景に眼を奪われていると、僕はまたトーレンに蹴られると思い、さっさとその家に入る用意をしました。襟を直し、もう一度服をバサバサとさせます。これでようやく訪問する体制が整いました。僕はどすどすと、その玄関の前まで歩いてゆき、ドアをやさしくノックします。その優しくといっても竜は力が強いですから、今にも家が傾きそうなぐらいの激しい揺れが起きました。そんな異端の来訪者に家の主人は大慌て、彼が家中を走り回る音が玄関越しにも聞こえてきました。こんな状況に、僕はどうして良いのか分からずオロオロしています。するとトーレンが、「ちょっと、どいていろ。」と、僕に言うので、僕は黙って後ろに下がりました。彼は大きな玄関の鍵の前に立つと、何かの道具を取り出してその錠をいじくっていました。鍵穴に何かの棒を入れてガチャガチャやっているようです。それを一分ばかし続けると、ガチャッという音がし、玄関の鍵が開きました。僕は何事が起きたのかと、びっくりしましたがそのわけを訊いてもっとびっくりしました。彼が言うにそれはピッキングという手法だそうです。この手法は外国の泥棒がよく使う手法でコツさえ覚えれば割合簡単にできるそうです。僕が彼に、「どこでこのやり方を習ったの?」と訊くと、彼は、「学校」と簡潔に答えました。僕は「そんな泥棒学校が世の中にあるんだ」と思いつつも、それ以上立ち入って彼にそのことを詳しくは訊きませんでした。だってそんな、何か闇世界の住人みたいな人とは親しくなりたくありませんもの。僕にだって感情はあります。だってそうでしょ、「触らぬ神に祟りなし」という言葉もありますし、僕だって怖いことは嫌いですから。
こんな臆病な竜はほっといて、トーレンはとっくに大きな荘厳な玄関の中にお邪魔していました。家の主人も馬鹿なのか、何なのか、判りませんが、玄関が勝手に開いたことを気にする様子もなく彼に挨拶をしています。そして彼も自己紹介をすませ、その主人を僕の方に連れてきました。僕は羽をまっすぐにし、少し緊張した面持ちで、
「初めまして、私は小太郎と申します。司教様からの紹介でここに参りました。どうかご指導のほどよろしくお願いします。」
僕の脳みそは思考停止状態に陥っていました。それぐらい僕は緊張していたのです。前の言葉を見ればお判りでしょう、僕の緊張状態が。僕は汗もだくだく、なぜかひどい混乱に見舞われていました。その状況を見て、心配でもしたのでしょうか? その主人は昔からの友達みたいに僕に挨拶をしてくれました。
「君が小太郎君か。うん、司教様が言われたとおりになかなか優秀そうだ。さてその話については後々詳しくするとして、まず初めに私の名前を名乗っておこう。私はディドロと言います。私の生まれ故郷はフランスです。だからこんな変な名前なのです。さあ、一通りの自己紹介も終わったことですし、ここでお話をするには、ちと不便ですなあ。ちょっと場所を移動しましょう。ちょうど今、奥の客室が開いているのでそこでお話しすることにしましょう。」
そういうと彼はひとりで奥の部屋にさっさと歩いていきました。僕もトーレンも彼の後を追って奥の客室に入りました。その部屋かなり大きく、中央には大きなテーブルがあり、そのテーブルには椅子が四脚、無造作に置かれていました。窓際には小さなテーブルとそれに一脚の椅子がついていました。どうやら、書き物をするテーブルみたいです。その椅子とテーブルだけは妙にきちんとされていて、このうす汚い部屋の中ではひときわ光彩を放っていました。それに午後の日差しが相まってなんともいえない情景が描き出されているのです。僕が、その日差しにうっとりしていると、何かぼやっとした人影が窓際の椅子の上に現れました。僕は疲れているのかなと思い、目をこすって再度その幻影の正体を確かめようとしました。実際よくよく見ればそれは幻影ではなく、人だったのです。その人の体は光が通り抜けられるぐらいに細く、それが僕に幻影だと錯覚させたのでしょう。時々頭をかきむしる透明な人に見入っているうちに、ディドロさんが紅茶をお盆に入れて運んできました。
「おい、小太郎君、紅茶を淹れたぞ。君もこっちにきて飲みなさい。」
僕はそんなディドロさんの言葉に答えもせず、窓際の彼をじぃっと見ていました。
「ああ、君はこのラモー君が気になるのか。だったらついでに彼にも自己紹介をしてもらおう。おい、ラモー君、彼に自己紹介をしなさい。」
その言葉に動かされるように彼はのっそりと席を立ちました。その目には異様な雰囲気が漂い、その背には霧が覆いかかっているのです。
「初めまして、僕はラモーといいます。僕は音楽家です。自己紹介はそれだけです。」
「え、ラモーさん、それだけですか? ほかに何かないのですか?」
「はい。それだけです。」
彼はそう言うとまた前と同じ位置に座りなおし、窓の外に目を輝かせていました。
「ラモー君はおしゃべりが苦手だから、こんな会話しか出来ないのです。」
ディドロさんは彼を庇うように言いました。その言葉にラモーさんが何か反応するかな、と僕は彼の方を見つめていました。しかし僕の思いとは裏腹に彼は何も反応を示しませんでした。こんな言葉より外の景色に興味がある、と言わんばかりに彼は外を眺めています。その空想家の彼に僕は興味が湧きました。僕はその大きな体を揺らしながら、どしん、どしんと彼のほうに近づいていきます。その歩く振動でテーブルの上の紅茶がこぼれましたが、僕は一向に気にしません。この重装甲車の振動がラモーさんの楽譜に響いたそのときです、彼は突然僕に目を向け、
「おい、お前の体は壊れかけのパイプオルガンか? そんな不協和音を鳴らされちゃ、窓の小鳥たちが逃げちまう。ほら、見て見ろ、あいつら、どっかに行っちまったじゃないか。くそ、くそ、くそ。なんて因果な野郎だ。俺の作詞を台無しにしやがって。」
僕はその言葉に耳を疑いました。彼のさっきまでのおとなしい雰囲気と違って、彼は突如として変貌したのです。どうやら昨夜捕まえた兎が、目を放した隙に狼になったみたいです。
「おい、お前の名前なんていうんだ。」
ラモーさんが僕に問いただしてきました。
「僕の名前は前に言ったはずですが…」
「そんなことは関係ない。お前の名前を憶えるかどうか決めるのは俺だからな。さあ、名を名乗れ。」
「僕の名前は小太郎です。」
僕は少し震えながら答えました。彼の目は檻に閉じ込められた獅子のように気高く、しかもその牙で今にも僕の心臓を食い尽くそうとしています。
「そうか、お前は小太郎というのか。おい、ちょっとこっちに来てここに座れ。」
彼は手に持った箸を振り回しながら、僕にその命令を促しました。僕はおそる、おそる歩を進め、一分半掛かってようやくその地点にたどり着きました。
「おい、お前は頭だけじゃなく、足まで遅いんだな。よし、これだったら言い訳も立つ。両方とも同じリズムでハーモニーを奏でているんだからな。そうだ。これだよ、これだよ。精神と肉体という個々に違う物が奏でる調和とは、まさにこのことだよ。ハーモナイズ(Harmonise)。Yor’re harmonium.」
彼は手に持った指揮棒をいっそう高く振り上げながら、そう叫びました。それは天にも届く透き通った声で僕の神経を高ぶらせました。僕は体の震えとは反対の精神の震えを敏感に感じ取ります。僕の足のつま先からひとつの振動が、もう片方は頭のてっぺんから、それは一気に雷鳴のごとく僕の全身を駆け巡りました。その雷が僕の真ん中でぶつかるとそれは心地よい音楽を奏でるのです。彼の今の印象はそんな感じでした。
「おい、オッペルの象。お前、音楽は好きか?」
「オッペルの象とは、何ですか?」
「何だ! お前は、そんなことも知らんのか。オッペルの象とは宮沢賢治の物語に出てくる、お前みたいにびくびくした奴のことさ。さあ、そんなことはどうでもいいから、質問にさっさと答えろ。」
僕の背筋に電気が伝わってきました。びり、びりり、それは背中の下のほうから頭頂部にかけて伝わってきました。
「はい。僕は音楽が好きです。特にモーツァルトが好きです。」
「そうか、やっぱり好きか。それで、どんな具合にそれが好きなんだ?」
「どんな具合と言われましても…、僕はただ好きなだけで、」
「何たる不届きな奴だ。それは音楽への冒涜だ。そんな野郎に音楽を聴く資格はない。」
彼は突然箸をほうり投げました。そしてまた前のように小鳥のさえずりにじっと耳を傾けています。その無神経さに僕は思い切って、「じゃあ、何だというんですか? 僕は音楽が好きです。けれどそれを人にとやかく言われたくはありません。さあ、ちゃんと答えてくださいよ。音楽が何であるかを。」
「ふん、まだそこに居たのか。」
「ええ、居ますよ。あなたが僕にその答えを教えてくれるまでは。」
「なるほど。だったら、黙ってこの小鳥の歌声を聴いてみろ。」
僕はそれに怒りそうになりましたが、今は黙って彼の言うとおりにすることにしました。僕は窓のほうに姿勢を向き返し、大きな耳を窓に近づけます。するとさわやかな歌声が聴こえてくるじゃありませんか。鳥たちが奏でるその歌声はとてもきれいで僕はうっとりとしてしまいました。
「どうだ、解ったか? 音楽の意味が。」
「はい。言葉では表現できませんが、感覚としては感じ取れました。」
「よし、そうか、解った。じゃ、俺が代わりに言葉で説明をしてやろう。それが先生の礼儀ってもんだからな。これは余分な付けたしには違いないが、何かの役には立つだろう。特に馬鹿どもへのあてつけには十分な役割を演じてくれるはずだ。さあ、講義を始めるぞ。」
僕は、その講義への期待に胸を膨らませました。あまりに胸を膨らませすぎて、口から火の玉が出そうになりましたよ。だってそうでしょう、彼のように面白い人が僕に音楽を教えてくれるのですから。しかも音符の意味とかじゃなくて、音楽そのものの意味を教えてくれるのですから。
「第一に音楽に必要なものは感受性だ。それが無ければお話にならない。その感受性の敏感な性質とは、今にも砕けそうなハート(Heart)のことを言うんだ。お前にはそれがあるか?」
「はい。あると思います。そのことについては昨日司教様からも言われましたし、それに僕自身その意味がよく解りますもの。それは僕の感じやすい心のことを言うんだと思います。」
「よし、お前は優秀な生徒みたいだな。これで講義はお終いにしよう。芸術家にこれがあればもう何も怖いものはない。これが全てに通ずる真理だからな。とはいっても、これだけじゃ味気がないからいくつかの例を出して、音楽の効用を説くことにしよう。」
僕の心臓は激しく波打っています。その狂おしいほどの期待に僕は耐え切れずに、
「お願いします。その効用って奴をぜひ、僕に聞かせてください。」
「そう焦りなさるな。少し落ち着きたまえ。ほら、一回深呼吸をして。」
「すぅぅん、はぁ。」
そのときです、あまりに深い呼吸をしたために僕の口から火の玉が飛び出ました。幸いその火の玉は小さく、ラモーさんの毛を少し焦がすぐらいで済みました。それにディドロさんがすぐに水を持ってきてくれたので、被害も最小限に食い止められました。けれどラモーさんはそんな大事にも関わらず、落ち着いた調子で話を続けようとします。そんなラモーさんの多少火が残っている頭の上にディドロさんが水をかけ、何とか周りの事態も収まりました。ラモーさんは水も滴るいい男のような格好でこう話し始めました。
「よし、じゃあ話を始めるぞ。まず劇と音楽の組み合わせから始めよう。その中でも種類は色々あるが、劇にいる歌手がその音楽に合わせて歌う、オペラというものがあるだろう。初めにその技術についてのことを話したいと思う。
第一に歌手は音楽より強く舞台に出てはならない。もしそんなことをすれば、歌手の印象があまりに強く出すぎて、音楽の印象を消してしまうからだ。さあ、ここで質問を君に出そう。もしそのようなことが起こったらどうなると、君は思う?」
「もしそういうことをすれば劇は一本調子になってしまいます。それに調和も取れません。」
「ふむ。君の言うとおりだ。文句のつけようがない。音楽には当然リズムの高低がある。それに合わせて彼ら、歌手は歌うのだ。絶対にそれはそうしないとならん、というわけだ。なぜならそのような調和を乱す行いをすれば、それは不快な物としてしか成り立たないからだ。」
「はい。言葉より先に私は感覚でそれを知っているので、今のお話はよく理解できます。」
「よし、では次の講義へ進むとしよう。今度は音楽と光の関係だ。劇においての光の役割は大きい。光も生き物である以上それを尊重しなければならぬ。もし真っ昼間に狼の遠吠えが聞こえれば、人はそれに違和感を覚える。なぜならそれは夜に行なわれるものだからだ。音楽と光の関係もそのように成らなければならない。さあ、早速例を出すと、まず音楽が静かな調子の時には、それと調和する闇を選ぶべきである。反対に軽快なテンポの時には明るい光を舞台に注ぐ必要がある。このような調和が難しい劇の場合には特に重要だ。また光度の調和はヴェルネの絵画『夜、月の光』のようにしたほうがよい。後は光と音楽との共鳴だな。この共鳴とは音楽が進行する時に起こる、光の強弱の調整だ。音楽が時間と共に動くように、光もその強弱を変えなくちゃいかん。時には音楽を引き立たせるように、時には音楽を牽引するようにな。そして歌手はそれを補う存在である。彼らは音が高くなると、とたんに声をすぼめるか、もしくはその音にそって音楽と一体化する。これらは非常に重要なことである。もちろん音楽以外の分野にもな。」
「はい。今までの話はよく理解できました。しかし疑問に思うことがひとつあるのですが、よろしいですか?」
「さあ、早く言ってみたまえ。」
「劇における音楽の役割と同様に、それを演じる役者または音楽家がそこにはいます。けれど彼ら自身の才気の問題となるとそれは別です。いくら先生のおっしゃるような手法が音楽や劇に使われても、そこには当たり前のようにその才能を持ち合わせない者がいるというわけです。そこで問題が起きてきます。例えば音楽家はすばらしいのがそろっているのに、役者はだめだとか、そういう場合があると思うのです。その状況では当然調和は取れませんね。」
「もちろん、それはそうだ。一人一人の能力、それは何をするにしても前提とされることなのだが、現実にはそれをまじめに考えずに徒党を組んだりして自分の能力の無さを無理に凌ぐ輩のほうが多い。しかし残念なことにその類の話になるとそれは私の手には余る仕事になってしまう。こういう話は、ディドロが得意なんだよ。だが最後にひとつ言いいたいことがあるのでそのことについては答えてもらいたいと思う。ある小さな十人位の劇団に一人か二人の怠け者がいたとしよう。彼らは舞台の演劇も、そこそこ、上手にこなし、調和を乱すことはない。しかし彼らには向上心がなかった。それでも仕事ができたのは、生まれつきの才気のおかげである。彼らはその恩恵で駆け上がってきたというわけだ。ほかの劇団員はもちろん向上心があり、将来的にも期待が持てる。さあ、ここで問題だ。もしお前がそこの劇長だったらその怠け者たちを解雇するかしないか、どっちだ。」
僕は冷静にその話しを分析しました。人という者は長くほかの人と付き合えば付き合うほど、その人に愛着が湧くのです。けれどそれと能力は比例しません。むしろ反比例の結果になるほうが多いのです。だから僕はこの話の答えにできるだけ感情を混ぜるのをやめにしました。僕の今の目は氷のように冷たく、透き通っていました。
「はい。僕は彼らを解雇しますね。自分の能力の限界を悟っている者は、次の行動としてすぐ後ろまで昇ってきている者たちを蹴落とそうとしますから。彼らは自らの限界に跪き、他の人達の向上心を妬みます。そしてそのような行動を起こそうとするのです。いくら舞台の上で調和が取れていたとしても、最終的に内輪もめで調和が取れなくなるのは目に見えていますからね。したがって僕は彼らを解雇するでしょう。」
ラモーさんの目つきがだんだんと和らいできました。しかし、まだその目の奥には大きな火の粉が舞っていました。いまだ見ぬ獲物を捕らえる準備のために。
「ふむ、ふむ。なかなかいいね。合格点だ。しかし、ひとつ気になる言葉があったな。君が最後に言った“するでしょう”という言葉だ。俺は何かそこに妙な引っ掛かりを感じたね。何で君はそんな言い回しをしたのかね?」
「僕がそういった理由は、あまりにもこの話が単純だからです。その単純な内容から断定的な結論を引き出すのは不可能であります。例を出せば、あなたが怠け者といった人達も、もしかしたら将来すばらしい役者になるかもしれない。また、向上心のある人々が将来的に怠け者になる可能性だってある。僕が本当に劇長だったら自分の目で見た以外のことは信じませんね。ある団員がほかの団員の悪いところを言いふらしていたとしても、僕はそれに耳を貸さないでしょう。口から出る言葉はいくらでも変えられるし、それが現実と合っていることなんか本当に稀ですからね。だから僕はその現場を見る前にちゃんとした答えを出すことは出来ません。結局そういうことをしないと、自分がどこに立っているのかすら、判らなくなってしまいますからね。」
僕はこの比較的長いようで実際は短い対談を通じて、前よりラモーさんが不可思議な人物に見えてきました。彼の背に見える霧はもっと濃くなり、その眼に眠る炎は微かな燐光を放っています。大抵の人と話をすればある程度その人の能力が測れるのです。事実、世の中の人にはその法則が通じます。しかし彼の場合は違います。話しをすればするほどその背後に控える幻影は、僕の心から遠ざかっていくのでした。
「よし、良いぞ、良いぞ。現実に即さないことを認めないその精神、すばらしいぞ。オッペル、現実というのはいろんな面から見なくちゃいかんぞ。人だけを例にとったってそうだろ。人は感情的な時もあれば、理性的な時もある。実際その感情とか、理性とかは別々の人間に分け与えられているのではなく、一人ひとり、個々人に内蔵されているんだ。だから感情的な人間という言葉は存在しないんだ。なぜならそれは一面的な見解でしかないからだ。世界を鏡越しに眺めてもしょうがないだろ? 私たちは世界というものを多面的に見なくちゃいかんのだよ。事実に沿っても少し説明すると、感情と理性、悟性と感情、記憶と感情、記憶と理性なんかが結びつきあって、その時々の人間を形作っているんだ。このことは人格という単純な言葉に統一されない人間の本質のひとつである。えっへん、これは自分をよく観察してみれば分かる事実だ。そうだ、もうディドロも退屈そうにしているから、今日の講義はここまでにしよう。ほら、君の横に立っている、ディドロを見てみな、陰気な顔つきをしているだろ。」
彼は昔の忘れ物を見つけるかのように、その警句を述べました。
「私はそんなに陰気じゃありませんよ。」
僕はその言葉に驚いて、飛び上がりそうになりました。僕はラモーさんとの話に夢中になって、すっかり当初の目的を忘れていたのです。はっと、目を横に移せばディドロさんが僕のそばに立っているじゃあないですか。その横顔をまじまじと見ても、確かにディドロさんの顔つきは陰気ではありません。「ラモーさんはずいぶんひどいことを言ったなあ」と手を口に添えながら僕は含み笑いをしました。そしたらラモーさんのほうを向いていたディドロさんの顔が急にこちらに向きかえって、
「小太郎君。そろそろ、紅茶の時間にしよう。しかしラモー、お前もせっかくのお客さんに長々と話をしちゃいかんぞ。なんたって、今日が初めてのご来訪なんだから。」
「そんなことは俺の知ったことじゃない。ただ、俺は当たり前の話を聴かせていただけさ。」
「ふん。わかった、わかった。お前の流儀は前から知っているよ。妄想家のラモー君。」
「いや、俺は空想家だよ。」
ラモーさんは、そう最初のときみたいに相手を突き放すと、姿勢をちゃんとして、小鳥のさえずりに耳を傾けるのでした。「この人はとことん、自分勝手だなあ。」僕は座りながらラモーさんに会釈をし、でっかい腰を上げながら、ディドロさんの手をとりました。
「おい、小太郎君。君は体重何キロだい。重たくて君の体は持ち上がりやしないよ。」
「あ、すみません。僕、自分で立ちますよ。」
僕はそのディドロさんの不意を付いた言葉に神経を囚われませんでした。デリケートな僕はいつもならその言葉に深い傷を負うでしょう。けれどこのときは違いました。その感傷的な言葉はやけに小さく僕の耳に響いたに過ぎなかったのです。
それはごく自然に時間と共に僕の心の中を通りすぎました。あまりに自然だったので僕は、その事件を家に帰るまで思い出せませんでしたよ。
ディドロさんは、僕の手を軽く引きながらテーブルまで、導いてくれました。そのテーブルにはすでにトーレンがえらそうに座りこけていました。ラモーさんは相変わらずに窓辺にいます。ディドロさんにとってそのことはごくありきたりなことのようです。彼はラモーさんに目を向けることなく、僕の横の椅子に腰掛けました。それに続いて僕も椅子に座りました。彼はおもむろに紅茶を口元に運びながら、
「うぅん、いい香りだ。これは上等な紅茶だ。今日は良いお友達も来ているから、余計においしいな。」
彼はトーレンと僕に目配せしながら、話を切り出します。
「昨晩遅く、それももう町の明かりがほとんど消えかかった時ぐらいだろうか、私の家に司教様が訪ねてきて、君のことをよろしく頼むと私に言ってきたよ。そのときのお話によると、どうやら君が悩んでいると言うんだよ。それは本当かね?」
「はい。僕は昨日覚えた不思議な感覚に悩んでいるのです。」
「それはどんな感覚かね?」
「それは怒りという感情だと思います。」
「ほう、怒りか。私は久しくその言葉を使っていなかったよ。」
「なぜですか? あなたほどの人でも怒ることぐらいおありでしょう?」
「いや、本音を言うとね、僕はその怒りを感じることがあっても、それを考えることによって抑えてしまうんだ。僕はその方法を二十歳のころ、本に騙されることもなく熟慮の末、手に入れたのだよ。」
「その方法とは何ですか?」
「それは僕の口から言ってもしょうがない。君自身で考えなければいけない問題だよ。そうだ、僕の書斎にいい本があるんだ。ちょっと待ってくれ。今その本をとってくるから。」
そう言い終わると彼はハンカチで口を拭きながら、二階の書斎まで駆け上がっていきました。
待っている間、「僕は少し期待が外れたなあ」と思っていました。だって司教様のおっしゃるとおりの人物ならその方法を教えてくれるはずだと、僕は期待していたのですから、それを破られて僕はがっかりしたのです。「そんなに世の中甘くないなあ。」僕は期待をした自分を責めながらも、満足のいく解答を自分の中で見つけることができませんでした。そんな気持ちの中、僕は急にトーレントと話がしたくなりました。目の前の席に座っているトーレンは何かの本を読んでいます。えぇと、本の題名は何だろうな? 椅子から身を乗り出してよぉく見てみると、それは『ファウスト』でした。文豪ゲーテの著作です。するとトーレンが本を少し下げ、目だけを覗かせました。彼は僕の方を時々見ながら、
「おい、何か用か?」
「うん。僕は君のことをあまり知らないから、少し話がしたいなあと思って、」
「やめとけ、それだけはするな。今そんなことをすればお前のためにならない。お前、今なんか不満があるんだろう? お前のその眼を見ていればそれぐらいは分かる。一時のおしゃべりで解消できる不満なんか、多寡(たか)が知れているぞ。その不満の原因を自分のうちで解消しない限り、お前はまた不満や怒りに大忙しになる。そしたらどうだ、お前のこれからの人生はそれに振り回されぱなっし、一生が、時間が、台無しになっちまう。結局、一時凌ぎの会話から得るものは何もないからな。」
少し、僕は彼の物言いに驚きました。彼は僕に同情していません。そんな場面は彼と一緒になってからまだ一度も見たことがありません。もちろん彼は怒ってもいません。彼は僕に客観的な意見をくれたのです。僕は彼の言うことがもっともだと思いました。僕がまだ弱いから他人にすがりたくなる。けれどそのままじゃだめだ、ということも僕は解っている。たまに僕の弱い面が外に出るときがある。そんな時に厳しい説教をしてくれた彼に、僕は感謝しています。
あまりに素直な僕はこの悪い癖を直そうと、即刻決心しました。そして僕の精神はディドロさんが戻ってくるまでの間、長い旅立ちに出ることになりました。その旅路の途中には何が起こるのでしょうか? まずトーレンがさっき僕に言ってくれた意見のことを考えることにしました。
「彼の話し方は悪いけど、けれどそこには相手のことを真剣に考えて話す姿勢がある。」そんなことを考えていると、僕はいつも空想の世界に旅立ってしまうのです。今回の旅の目的はこんな話し方で生きてきたトーレンが、今までに他人からどういう誤解をされてきたかです。
トーレン、いったい君はどんな生き方をしてきたんだい? 君が歩いた道には一体どんな悲劇が埋もれているの? トーレン、君はその魂が強く鋼のようになる前、どんなに思い悩んだことだろうか。生まれたばかりの時に、君はどんなものにも関心を示したはずだ。おもちゃに、自然、建物、人の顔。変わり行く風景を心にとめる間もなく、次々に君の頭には心像が焼き付いてゆく。早く回りすぎる頭は時として、大きな不幸を呼び寄せる。それが時々発作のように胸を締めつけたんだろう? 他人が褒めそびやかすその頭脳を君自身は正直疎ましく思っていた。ふとしたきっかけでその水は堤防を簡単に破壊する。混沌とした渦が君の心中に渦巻く限り、君は人の目をしのばなければならなかった。その結果どうだ、見てみろよ、自分を、自分自身を。残った物といやあ、そのちっぽけな体だけじゃないか。しかし、そこに至っても君は幸福に恵まれなかったんだ。実際、君はその体すら、憎くてしょうがなかったことだろう。距離を隔てすぎた体と心。その倒錯が君を追い込んでいく。果てにそれは怪奇な妖怪となって、心に住み着いた。ある小さなできごとによってその妖怪は暴れだす。そして暴れ疲れた彼は君にこう問いただすに違いない。
「おい、もっと楽な道を選べよ。周りの奴らと歩調を合わせることぐらいに楽なことはないんだぞ。ほら、ほら、肩の力を抜けよ。この広い世の中、お前は十分にがんばった。そろそろ安心したいだろ? その手に人並みの幸福を握り締めたいんだろ? あ、文句でもあるのか? なんだ、その顔は。貴様ごときの野朗が、この俺様の意見に楯突こうって言うのかい? そんなことをして許されるとでも思っているのか。お前の陳腐な意見ごときがこの心に根ざした欲求をどう晴らしてくれるって言うんだい。お前と俺は一心同体、俺なしじゃお前は生きられないんだよ。何度そのことを説明すれば解るんだ、小僧。何、何だって。それなら正義の味方を連れて来るって。ふん、それがどうした。その正義とやらも所詮は小物だ。お前の心のうちに眠る欲求を抑えることはできやしない。け、どうせ、解っているんだろ? 正義が何なのか? 倫理という言葉が何を表しているのか? その意味をお前はよく知っているはずだ。それは俺を少しの間押さえ込める偶像でしかないんだ。俺の支配に抵抗する反政府組織の連中どもが、お前らは何のために存在しているんだ? 何度も俺を殺し、焼こうとも、俺は再び蘇る。お前らが酒を片手に地上の幸福に酔いしれる時、俺はお前らの足元に静かに擦り寄る。そう、猫だよ、猫。俺は猫なんだよ。すり、すり、する、する、そっちのけ。都合の良い時に現れ、その都度ゴマをする。その甘い囁きに誰が耳を傾けないというんだ。自分が良ければ全て良し。この定理ほどすばらしい物はこの世の中にはないんだよ。いい加減そのことを判れよ、この馬鹿正直者が。
もしお前が本当に俺を嫌うなら、その手を切り刻め。その血まみれになった手を周りの奴らに見せてみろ。そうだよ、その血にまみれた手を頭上高く掲げるんだ。もっとだ、もっと。もっとたくさんの人々にその手を見せてやれ。
糞どもが、何でこんなに喚きやがる。俺が何をしたって言うんだ。俺はただ人に自分の分の水を分けただけだ。良かれと思ってやったことだ。俺は水を飲みたかった。けれども俺の心はそれを遮った。ほら、周りの泣き叫ぶ子供たちを見ろ。お前の水を欲しがっている。そうだ、あげろ、あげろ、子供たちにお前の水をあげろ。そうすればお前の心も少しは落ち着くだろう。くそ、くそ、くそ。のどが渇いてしょうがない。なぜだ? なぜ、俺の体は水を欲しがる? 俺は自分の水を他の人々に与えてしまった。もう俺の手には何も残ってはいない。あるとしたらこの体だけだ。そうだ、自分の血を飲めば、こののどが癒えるはずだ。あの、すみません、ちょっと包丁を貸していただけませんか? よし、これで準備は整った。怖いけどこれも人のためだ、やるしかない。決断しろ、人助けと食料、どちらを執るのか。お前は自分の心に誓うんだ、その信念を体に刻み込め。お前は何のために生きている? お前は何のためにその体を傷つける?
なぜだ? なぜ、俺の周りから人が遠ざかっていくんだ? 答えてくれよ、頼む、誰でもよい。俺が人を助けたのがいけなかったのか? 何で俺は血の海に沈もうとしているんだ? 俺は他人の命と引き換えにこの血の海に沈もうとしている。もう、眼を閉じてもいいか? もうこの海で慰めになるのは俺の墓標だけだ。死ぬ間際になっても人々は集まってこない。彼らはお祭りでもしているのだろう。遠くから笑い声が聞こえてくるような気がする。ああ、ようやく俺に気付いてくれんたんだな。俺の墓を作ってくれるんだ。血で汚れた俺の墓をちゃんと掃除してくれよな。良かった。やっと俺もこれで眠りにつける。俺が目を閉じたあと、最後に見た墓石にはこう記してあった。
“最も偉大なる者にして、高貴なる者にささげる。その命を賭して、世界へ貢献した者よ。汝は神につかわされた使徒であった。その高貴なる魂は、人々を導いた。そこには確かに神の意思があった。我ら、汝の功績を称えここに汝を奉る。 人々より”
結局こういうことかよ。俺たちの功績とは。俺たちの価値は人生の苦悩とその偶像によって決定された。利益、利益、自分、自分。それしかこいつらの頭にはないんだ。何も感じず、何も見ない。自分にとって利益になること以外はな。それがこの世に君臨している、それもまた事実だ。人数が一番多いというだけでな。それは大衆と言う。そう、彼らはそう呼ばれている物たちだ。」
嫌だ、嫌だ、僕はそう言いながら頭を激しく揺り動かした。僕は今自分が頭を振っているのか、振っていないのか、それが判らなかった。激しい観念が僕の中に流れ込んでくる。うあぁあ、だめだ、このままじゃ頭がおかしくなる。助けてよお、助けてよお。僕はそう心の中で叫び続けた。誰か、助けて。この闇から僕をだして、この狭い部屋から僕をだして。
トーレンが僕を現実に引き戻すまで僕は正気じゃなかった。おかしくなった僕を見かねて、彼は座っていた席の椅子を蹴り飛ばすと僕に駆け寄り、「おい、どうした? 急におかしくなるなよ。お前らしいといえば、そうだが、そんなに頭を振ったら脳みそがスープになっちまうぞ。深呼吸をしろ。それから紅茶を飲め。ちょっとは落ち着けよ。こうたろう。」
「違う。僕の名前は小太郎だ。」
「そうか、また間違えたか。俺は人の名前を覚えるのが下手なんでね、許してくれよ。」
彼は何かを忘れているようです。ずいぶんずさんな医療事故ですな。トーレン君。それじゃあ、仕事は務まりませんぞ。
「おい、変なことを言って人を困らすなよ。そんなことはどうでもいいんだよ。よし、反応はあるな。意識レベルも正常だ。さて、脈はどうかな。ふぅむ、多少、落ち着かないが正常の範囲内だ。よし、検査終了。お客様、請求書は後で切っておきますね。お支払いはあちらの事務所でお願いします。」
彼は僕の胸を指差しながらそう告げました。
「どこの事務所ですか?」
「それはお前の心の中にあるのさ。自分でその事務所のドアをノックしてみろ。そうすれば、この言葉の意味が解るはずだ。あ、そうだ、ディドロさん悪いけど、」
振り向くと、ディドロさんが僕のことを心配そうに眺めていました。その彼の手には汗で少しぬれた本が硬く握り締められています。
「この家にレモンか、梅干みたいな、すっぱい食べ物置いてありますか?」
「ああ、台所にレモンがあるよ。ちょっと待っていてくれ、すぐそれを取ってくるから。」
「はい。ありがとうございます。」
トーレンはディドロさんの方に向き返し、敬礼をしました。それも長年訓練された軍人がやるみたいなピシッとした敬礼を。ディドロさんが戻って来るまでの間、彼はそのレモンの意味を僕に説明してくれました。
「こういう時にはなあ、刺激物を体に与えると良いんだ。そうすれば一時とはいえ、心の平常心が戻る。これは怒った相手によく用いる方法だ。それをすると相手は食物に心を奪われ、怒りを忘れてしまうんだ。しかし最初に言ったようにこれは一時しか効かない方法だ。だからあまり多用するべきではない。そのちゃんとした方法を教えてくれるのは、お前の心だ。それは肝に銘じておけ。」
その話が終わった頃にディドロさんが腕にレモンをたくさん抱えながら、走って戻ってきました。途中で転びそうになりながらも、彼は、ちゃんと僕の前までたどり着きました。次にディドロさんは、間髪入れずに僕の口にレモンを百個ぐらい詰め込みました。猛烈なすっぱさ。突然のできごとのおかげで僕は声が出せなくなりました。それでもなんとか「うぅぅ」と低いバスでディドロさんの目に今の僕の状態を訴えかけます。いかにも辛そうな風体をしてみたりしながら、僕は身振り手ぶりを駆使しながらも訴えかけます。僕の苦しそうな眼差しにディドロさんは微笑み返してきました。彼はどうやら自分の所業に満足しているようです。そんなことは僕の知ったことじゃない。僕は苦しいんだ。誰でもいいから、早くこの状態から僕を救ってくれ。そんな地団駄を踏んでるドラゴンを見かねて、トーレンが僕のほうに近寄ってきました。早く、早く、窒息しちゃうよ。助けて、トーレン。この時ほど彼が神様に見えたことはありません。彼が僕に一歩、一歩近づいてくる、その足はまるでイエス・キリスト様の御足じゃないかと思いましたよ。とうとう僕の目の前にやって来た彼はすぐさま手を僕の口の中に突っ込みました。
「うぐ、ぐぐぐぐぐぐ、うぇぇ。」
ひどい痛みが僕の胃に走りました。吐きそうになりましたが何とかこの拷問にか耐えました。
こんな具合に何とかこの事態は収拾されました。やれやれ、なんとか事態も収まって僕も一安心です。一安心。僕はこの言葉に妙な違和感を覚えました。やはりさっきのトーレンの言葉の影響でしょうか。僕は改めてこのことを家に帰ってから考えることにしました。
「大丈夫ですか?」と、ディドロさんが言いました。
「はい。もう大丈夫です。」
なんだい、その言葉は。さっきは僕のことを心配したかと思えば、そのすぐ後に僕をさんざん苦しめておいて、よくそんなことがぬけぬけと言えたもんだ。僕はいわれのない怒りをディドロさんに向けようとしていました。彼もどうやらそのことを察知したようで、
「小太郎君。今日は色々あったし、そのお話については明日またやろうじゃないか。」
「いいですよ。僕も少し疲れてきたのでちょうどそう言おうと思っていたのです。」
「ああ、よかった。私もこんな状態じゃ話が出来ないと思っていたんだよ。しかしずいぶん予定がくるってしまったなあ。そうだ、君のために持ってきた本を渡し忘れていたよ。これはセネカという人の書で、題名は『怒りについて』だ。昔の偉い人の本だからきっと君の役に立つと思うよ。受け取ってくれるかね?」
「はい。大切に読ませていただきます。」
「そうか、解った。こちらもごたごたして、悪かったね。特にラモー君とか。」
「いえ。僕は彼を有能な人物だと思いましたよ。それに彼と色々お話できて僕も得るものがあったし、何も悪いことなんかありませんよ。ではそろそろ失敬させていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
「ああ、すまないねえ、本当に。明日の十時にまたうちに来てくれ。そしたらちゃんとした話し合いができると思う。じゃあ、また明日。」
軽く頭を下げ僕らに挨拶すると、彼は寂しげな後姿を見せながら、細まった廊下の奥に消えていきました。玄関を閉めずに彼は奥の部屋に入ってしまいました。それほどディドロさんに不幸なことがあったでしょうか? 今日一日彼を見ていた僕ですら、まったく見当もつきません。「僕の思い違いだな」と、僕は思いました。そのせいで彼の後姿に何の意味があるのか、僕は考えようともしませんでした。
「その背に観ゆるは、悲しき竪琴。その手に握らるるは、孤高の鋼。」
入ってきたときと同じく、トーレンが外側から鍵を閉めます。前にこの光景を見た僕はなにも驚きもしませんでした。彼にとっても、それは当たり前のことのようです。それに僕の頭の中には違うことが浮かんでいるのです。これも周りに関心が湧かない原因のひとつなのです。人は一つの物事に気をとられていると、周りの状況にたいした注意を払わなくなる。そういう一つの観念が僕の心を占拠しているのです。さらに厄介なことに彼らは籠城戦を決め込んでいます。この一筋縄にはいかない兵たちとの交渉はとにかく家に帰ってからすることにしよう。僕は周りの状況を見てそう判断しました。この判断も冷静にしたわけではありません。だって現実にトーレンが僕を小突いて急かしているからです。それも僕の急所を正確に捉えてくるからたまったもんじゃありませんよ。彼がその太い親指で僕のあばら骨を貫くたびに僕は、「ぎゃあ」と小さな悲鳴を上げます。その状況を見て、僕は思うのです。「人とは変わるもんぞよう。」さっきまでやさしく僕に接してくれたトーレンが、今はおもちゃのボールを蹴るように僕のお尻を蹴ったりしています。しまいには僕のあばら骨を、なんの技だかは知りませんが、そのどっかの拳法の練習だといわんばかりに貫いてくるのです。“貫く。”この表現は正しいと思います。彼の親指は鋼と変わらないぐらい硬く、そして鋭い。この凶器に襲われる僕の身にもなってください。それは“突く”という感じではまったくなく。まさに“貫かれる”という感じでした。こんなお遊びも長くは続きません。そうそうにこの珍喜劇に飽きた彼は声を掛けました。
「おい、いい加減帰ろうぜ。」
「僕もそう思っていたところです。」
「いきなり敬語で話すなよ。気持ち悪いだろ。やめろよ、そんな言葉使いは。」
「はい。以後、気をつけます。」
僕は自分でも驚くほど丁寧に返答しました。それも気持ち悪いぐらいに。彼の僕に対する行動から自然に僕はそういう風になってしまったのです。誰だって蹴られたらこうなります。当たり前ですよ。
しかし彼はそんな僕の心情を察している様子がまったくありません。「こうなったのは君のせいだよ。」僕はそう心の中で呟きながら、くす、くす笑っていました。すると彼がこう言いました。
「何か面白いことでもあったのか? こうたろうくん」
「前にも言ったでしょ。僕の名前は小太郎ですよ。」
僕はちょっと皮肉をこめて言いました。それが彼にも分かったのでしょうか、「おい、お前、俺をなめているのか?」
「いえ、いえ、とんでもございません。それはお客様の勘違いですよ。」
「やっぱり、なめていやがる。」
会話が終わると同時に彼は僕に軽く、蹴りをいれてきました。そして僕はお決まりの合図のように悲鳴を上げるのでした。
帰る途中僕らはこんな他愛もない話をしながら、家路に着きました。家に着いたのは太陽がちょうど西に沈むころ、夕方の五時です。家に着いた時に残っていたのは蹴られた時の鮮烈なる痛みの印象と僕のお尻にできたあざでした。体はけっこう傷だらけです。しかし面白いことに僕は彼に敵意を抱いていません。体とは反対に心は穏やかだったのです。僕はなぜか知りませんが、彼のことを憎めないのです。これは事実ですよ。もし僕がまったく知らない人にそういうことをされれば、僕は怒ると思います。彼を憎めない原因、それはたぶん僕が彼のことを少しなり、知っていることが原因だと思います。
そうなんです。実際僕は彼に愛着を抱いています。これは紛れもない事実です。種族も性格もまったく違う二人が惹かれあう。この珍しい現象に僕はさほども気をかけていませんでした。それほど僕たちの関係は自然だったのです。
何でしょう、この偶然は。これは今までの友達付き合いに見られた共感とは違います。そもそも僕は彼の言葉に共感できませんもの。彼の述べることは正しい、だから僕は彼を尊敬するのです。それに彼の眼はとてもきれいだ。そのきれいな眼に時々混ざる狼のような目つきも僕は好きだ。彼はとても頭が良いのだろう。言葉の端々にそれが現れている。この問題は難しいのでここでちょっと人の言葉を拝借、「生物とは自分と同じものに惹かれあう。」
なるほど、よし解った。僕にこの方程式を当てはめると、それはこうなる。
「僕が彼に愛着を見出したのは、彼の持つ能力が僕と酷似しているから。」
ふぅむ、これはおそらく僕の思い上がりであろう。なぜなら彼の方が僕より数段上手だからである。頭脳にしても、技術にしても彼は僕より数段物事を知っている。こんな考えをめぐらしている内に僕は気付いた。この友情の原因はもっと他の所にある。その他のところにある原因によってこれは成り立っているのではないか、と僕は一応結論付けた。とは言ってもこの問題は難しい。これについての思索はまた後でしよう。なんたって今日は雑用が残っているんだから。
晩遅くなってから、町の人々は僕の家にやってきました。ちょうど、料理中だったので、僕はノックの音がするまで、分かりませんでした。ですが、町の人は表情を見ると険しい顔、陽気な顔等々がありました。ある険しい男が「ずいぶん、出世したもんだ」と小声で言っているのが聞こえました。でも、僕は何が理由で出世という言葉が使われているのかが、解りませんでした。僕は家の中でブルブルと怯えながら、窓を少し開けて、町の人たちが帰って行くのを待ちました。しかし、陽気な顔をした人が何名か残っていました。けれども、びっくりしました。なぜなら、僕をちょろまかしに来たんですから。僕は彼らの言動に耐えられずに思わず、窓を閉めてしまいました。それにしても、彼らが何て言ったと思いますか? 如何にも親切そうな振りをして僕に近づき、話を聴き終ると、また仲間のところに戻って、いわれのない誹謗中傷を受けましたよ。聞こえる声で「あいつは馬鹿だ。頭が狂っている。どうしようもない奴。」とかを言われました。僕はひどく傷つき、傷心のまま、とぼ、とぼとぼと家路につきました。
「満月の御光にいざなわれ、いずる草原の演奏者。彼が歌うは、風の声。彼が歌うは、人々の叫び。彼が歌うは、生への謳歌。」
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